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一読えい劫 

テレビで一読えい劫を見た。
高樹のぶこさんが芥川の行った上海を、
石田えらさんが村上りゅうが物語の舞台に選んだ長崎軍かん島を、
佐伯さんが小川が描いた闘牛を、
あさ野あつ子さんが藤沢の育った鶴岡を、
訪れるというもの。

作家の想像力・表現力ってのはすんごいのである。さすがにベストセラー作家。
4人の中では「読んだ人の記憶の中に色が匂い立つのは大事なこと」とお話される高樹さんの感性が好き。


高樹さんはこう述べる。
中国にはあらゆる対極がある。東洋と西洋、伝統と最新流行、豊かさと貧しさ、そのぶつかりあいがまばゆく街を発光させる。
欲望が肯定される街。欲望が噴出してくる街。あの頃の知識人がみんな上海に来たかったのは、異国というリスクにさらされてみたかったから。
芥川が上海から帰国した6年後に自殺したのは上海で数週間入院した病室の小さい窓から外をみていた時に閉ざされた世界で自殺の感性が育っていったのかもしれない。知らないうちに上海は傷を与えたり受けたりする場所。特に傷ついた人には骨の髄までしみてしまう。上海には魔の力がある。
上海の路地裏に踏みしだかれたバラの花を散らしたのはフィクションだと思う。赤はバラの花弁でもあり人の血だったのかもしれない。フィクションを織り交ぜることで伝わる真実がある。
読んだ人の記憶の中に色が匂い立つのは大事なこと。

石田さんはこう述べる。
西新宿の超高層の物凄くテクノロジの進んだ部分と猥雑な部分との対比に惹かれる。地面ぎりぎりのところに居るのと地上200mのところに居るのと両方書くのが面白い。
物凄く綺麗なビルが滅んだ後はどうなるんだろう、綺麗な女の子が50年後におばあさんになったらどうなるんだろう、逆におばあさんの10代を想像したり、想像力を極端から極端に使う癖がある。更地や廃墟よりも超高層ビルの方に廃墟を感じる。
軍かん島を見て、
主人公がテロを起こしたのは、ただ単純に壊すというのではなく、親しみやすくて人間の暮らしていた温かみが残る廃墟、凄く良い遊び場になる廃墟、自分なりのユートピアを作りたいというためのテロだった気がする。
廃墟には人の過去と未来がある。

佐伯さんはこう述べる。
小川さんは牛の気高さの中に闘牛の哲学を見つけられた。僕は闘牛士側からの闘牛の発想でそれはピカソの「俺たちスペイン人って奴は、朝はミサ、午後は闘牛、夜は売春宿ときている」と同じ。ピカソにとって教会も闘牛場も娼婦のいる妓楼も価値感が一緒。
旅へ行かなかったのは忙しいからと言ったけど本当は「旅はもういいか・・・」みたいな気がしている。新たな旅に行きたくなくなってしまうほど濃密な旅だったから。目的が無くて懐にお金が無くて夢だけがあった時代の旅、明日が考えられない旅だから面白かったのだと思う。
もう一回やれって言われたら・・・・・・やるかな。もう一回繰り返すかな。
若い時代の旅は無謀、無計画、無目的、ついでに懐は無一文・・・それでも無限の可能性があった。夢も野心もあった。茫々30年、人生が残り少なくなった時、過去への自分へ、用心深く、慎重に旅する自分がいたりして、なんとも情けない。でも老いが所有する財産もある。積み重ねてきた体験、出来事、別れの数々・・・
今、僕は過去の自分へ旅を始めた。

あさのさんはこう述べる。
藤沢文学は生きていく価値が私の明日にもあると思わせてくれる。
知的なたたずまいを少年たちが獲得していく様子は、鶴岡に伝わる知性の伝統を感じる。
庄内藩校に流れをくむ小学校は今でも、論語を音読している。
ひたむきさと思いやり秘めたる情熱に静かな知性何気ない日常のさりげない風景に藤沢作品がある。本文の文学とはこの様にその大地と重なるものだということ。


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[ 2009/01/01 23:59 ] テレビ | TB(0) | CM(0)

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